はじめに
推古紀は「隋の使者」を「唐」の使者と誤解し、関連する語句を「唐」へと修正し、また、唐の語句を加筆していることは、すでに証明しました。それまでの説は、推古紀の「唐」が正しく、推古紀の紀年に10年以上(おそらく12年)のズレがあると主張し、紀年のズレがある証拠に、推古紀の「呉国」、「隋の煬帝」の記事も、挙げていました。今回、その二つの記事を検証することにします。
1.推古十七年(六〇九)の「呉国」の記事
◇推古十七年(略)筑紫の大宰 奏上して「百済の僧が、道欣、惠彌を首にして十人、俗七十五人、肥後の国の葦北津に泊れり」とまうす。是の時に、難波吉士德摩呂、船史龍を遣して、問うて、曰はく、何か來し也。答えて曰はく「百済の王、命じて吳国に遣す。其の国に乱が有りて入ること得ず。更に本鄕に返る。(略)」といふ。
(イ)この「呉国」を、古田武彦氏は推古十七年(六〇九)の十二年後、唐初の混乱期、武徳二年(六一九)から武徳四年(六二一)の間に存在した李子通の「呉国」とします。
(ロ)しかし、隋末から唐初は諸将の反乱と建国が相つぎ、武徳二年に王世充も天子と称し、「鄭(てい)」と号しています。王朝の帰趨が不明な時に百済が李子通の呉国に遺使するとは思えません。しかも、僧侶十人、俗七十五名の使節団です。仮に、建国した「呉国」への百済が使者を派遣するなら、官位を付与した官吏を長官として派遣するはずですが、僧侶と民間人の八十五名の使節団ですから、国交開設の使者ではなく、中国の一部、江南地方への文化交流使節と思われます。
(ハ)「乱が有って、入国できなかった」とあります。隋は五九八年から六一四年の間に四回、高麗へ水陸から侵攻しています。推古十七年(六〇八年)の頃は、沿岸地帯は船、船頭の確保と機密の保持で臨戦状態にあったと思われます。特に、百済からの使者に機密が漏れないように、入国を禁じたと思えます。
(ニ)記事の内容から「中国の江南地方」を倭人に理解できるよう三国時代の「呉国」と表現したと思われます。この記事は、実際に推古十七年に、百済の船が肥後の港に漂着した記事となります。
2.推古二十六年(六一八年)の「隋の煬帝」の記事
◇推古二十六年(略)、高麗、使を遣して方物を貢る。因りて、「隋の煬帝、三十万の衆を興して我を攻む。返りて我が爲に破られぬ。故、俘虜の貞公、普通の二人、及ぶ鼓吹、弩、抛石の類十物、幷て土物、駱駝一匹を貢獻する」といふ。
(イ)古田武彦氏は推古紀に「隋の煬帝」と「唐帝」の記事があることから、書紀の編者は隋と唐とを使い分けたといいます。「唐」の記載に誤りはなく、紀年のズレがあったと主張しています。
(ロ)推古二十六年の記事の内、高麗からの遺使部分は地の文です。しかし、煬帝の部分は引用文です。引用文と地の文とは筆者が異なりますから、「使い分け」はできません。
(ハ)推古二十六年の記事を十二年後の六三〇年にしますと、高麗は十八年前の隋の捕虜二名を献上したことになります。そんな昔の捕虜を献上するとは思えません。
しかも、推古二十六年(六一八)は隋が滅んだ年です。六一二年に煬帝は大軍を率いて高麗に侵攻し、敗退していますから、原文の通り、推古二十六年(六一八年)に高麗の使者が来訪し、六一二年頃の捕虜二名を献上したとすると、実際の出来事と一致します。この文は推古紀に紀年のズレがなく、推古二十六年までが隋の時代であったことの証拠となるのです。
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