邪馬台国の超入門

表題の「邪馬台国」は慣用で、正しくは「邪馬壱国」である。邪馬壱国の問題を解明することは、日本の古代史を探求する基点の設定でもある。この超入門は、これまでの邪馬壱国に関する主要な説を魏志倭人伝の原文と照合し、その内容の適否を分析、解明することで、具体的な国々の位置を明らかにすることを目的としている。果てしない論争の各説は、ここで集合し、統合されて、新しい倭人伝の世界へと結実する広場となるだろう。

呉 2

         図は『三国時代』(二二〇年~二八〇年)の「呉国」

はじめに

 推古紀は「隋の使者」を「唐」の使者と誤解し、関連する語句を「唐」へと修正し、また、唐の語句を加筆していることは、すでに証明しました。それまでの説は、推古紀の「唐」が正しく、推古紀の紀年に10年以上(おそらく12年)のズレがあると主張し、紀年のズレがある証拠に、推古紀の「呉国」、「隋の煬帝」の記事も、挙げていました。今回、その二つの記事を検証することにします。


1.推古十七年(六〇九)の「呉国」の記事

◇推古十七年(略)筑紫の大宰 奏上して「百済の僧が、道欣、惠彌を首にして十人、俗七十五人、肥後の国の葦北津に泊れり」とまうす。是の時に、難波吉士德摩呂、船史龍を遣して、問うて、曰はく、何か來し也。答えて曰はく「百済の王、命じて吳国遣す其の国に乱が有りて入ること得ず。更に本鄕に返る。(略)」といふ。

(イ)この「呉国」を、古田武彦氏は推古十七年(六〇九)の十二年後、唐初の混乱期、武徳二年(六一九)から武徳四年(六二一)の間に存在した李子通の「呉国」とします。

 (ロ)しかし、隋末から唐初は諸将の反乱と建国が相つぎ、武徳二年に王世充も天子と称し、「鄭(てい)」と号しています。王朝の帰趨が不明な時に百済が李子通の呉国に遺使するとは思えません。しかも、僧侶十人、俗七十五名の使節団です。仮に、建国した「呉国」への百済が使者を派遣するなら、官位を付与した官吏を長官として派遣するはずですが、僧侶と民間人の八十五名の使節団ですから、国交開設の使者ではなく、中国の一部、江南地方への文化交流使節と思われます。

 (ハ)「乱が有って、入国できなかった」とあります。隋は五九八年から六一四年の間に四回、高麗へ水陸から侵攻しています。推古十七年(六〇八年)の頃は、沿岸地帯は船、船頭の確保と機密の保持で臨戦状態にあったと思われます。特に、百済からの使者に機密が漏れないように、入国を禁じたと思えます。

  (ニ)記事の内容から「中国の江南地方」を倭人に理解できるよう三国時代の「呉国」と表現したと思われます。この記事は、実際に推古十七年に、百済の船が肥後の港に漂着した記事となります。

 

2.推古二十六年(六一八年)の「隋の煬帝」の記事

◇推古二十六年(略)、高麗、使を遣して方物を貢る。因りて、「隋の煬帝三十万の衆を興して我を攻む。返りて我が爲に破られぬ。故、俘虜の貞公、普通の二人、及ぶ鼓吹、弩、抛石の類十物、幷て土物、駱駝一匹を貢獻する」といふ。

(イ)古田武彦氏は推古紀に「隋の煬帝」と「唐帝」の記事があることから、書紀の編者は隋と唐とを使い分けたといいます。「唐」の記載に誤りはなく、紀年のズレがあったと主張しています。

(ロ)推古二十六年の記事の内、高麗からの遺使部分は地の文です。しかし、煬帝の部分は引用文です。引用文と地の文とは筆者が異なりますから、「使い分け」はできません。

(ハ)推古二十六年の記事を十二年後の六三〇年にしますと、高麗は十八年前の隋の捕虜二名を献上したことになります。そんな昔の捕虜を献上するとは思えません。
 しかも、推古二十六年(六一八)は隋が滅んだ年です。六一二年に煬帝は大軍を率いて高麗に侵攻し、敗退していますから、原文の通り、推古二十六年(六一八年)に高麗の使者が来訪し、六一二年頃の捕虜二名を献上したとすると、実際の出来事と一致します。この文は推古紀に紀年のズレがなく、推古二十六年までが隋の時代であったことの証拠となるのです。

                

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推古紀の大唐

図は推古紀で「大唐国」と修正するところ、元の「大国」が残っていた部分。

はじめに

筑紫に来た使者を、『日本書紀』の推古紀は「大唐からの使者」と書き、『隋書』は「俀国への使者を遣わした」とあります。同じ時期に筑紫に来た使者が、史書によって遣わした国が異なります。その謎の究明です。


1.使者を遣わした「国」の相違

(1)推古紀十六年(六〇八年)に「大唐の使人の裴世清、下客十二人が妹子臣に従って、筑紫にきた。」と書かれています。ところが、六〇八年は中国では「隋」の時代で唐の時代ではありません。

(2)『隋書』の大業四年(六〇八年)に「明年、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使せしむ」とあります。「裴清」とは「裴世清」のことです。唐の太宗「李世民」の諱「世」を避けています。『隋』は俀国に裴世清を遣わしています。

(3)『日本書紀』は「大唐の使者」、『隋書』は「隋の使者」と「国」に相違があります。

2.裴世清の称号の相違

(1)推古紀には、中国の帝の国書と天皇の国書の記載があります。二つの国書に書かれている使者の称号と氏名は、両方とも「鴻臚寺の掌客裴世清」です。

(2)ところが、『隋書』の使者は「文林郎裴清」です。称号が異なっています。

(3)古田武彦は隋の時の「文林郎」が正しく、「鴻臚寺の掌客」は唐の時の称号とします。つまり、裴世清は隋の時に来た。しかし、推古紀には年号に誤差(約12年)があり、推古紀の裴世清は唐の時の使者とするのです。結局、裴世清は2回、列島に来たとの説です。一応、称号の辻褄は合いますが、裴世清が2回、列島に来たとの証拠がないのです。

3.原因の究明

(1)『隋書』は唐の時代に編纂されたので、『隋書』は唐の太祖の諱を避けて、「裴世清」を「裴清」と書いたと考えられてきました。ところが、『隋書』を調べると「世民」の諱を避けていないことが判りました。つまり、唐の時代に裴世清が名乗った称号と氏名を『隋書』は記載したことになります。隋の時に俀国に来たときは、「鴻臚寺の掌客裴世清」だったのです。

(2)『日本書紀』の編者の誤解

 『日本書紀』の編者が『隋書』を読んでいたことは、『日本書紀』の記事から判ります。『隋書』の記事を盗用した記載があるのです。つまり、『日本書紀』の編者は「文林郎裴清」は隋の時と判断したため、帝と天皇の国書に書かれている「鴻臚寺の掌客」は「唐」の時代と誤解したのです。

4.『日本書紀』推古紀の修正

そのため、『日本書紀』を編纂するときに、元となった資料に書かれている「大国」を「大唐、または唐国」、「客、帝」は「唐客、唐帝」と修正したのです。

・十五年。「秋七月 大禮小野臣妹子遣於大唐」、・十六年。「夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。(略)爰妹子臣奏之曰『臣參還之時、唐帝以書授臣(略)』、「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉。壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。(略)於是、大唐之國信物、置於庭中。(略)丙辰、饗唐客等於朝。」、「九月辛未朔 辛巳、唐客裴世淸罷歸。(略)福利爲通事、副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝(略)是時、遣於唐國學生倭漢直福因・奈羅譯語惠明。・十七年。「秋九月、小野臣妹子等至自大唐」、・二十二年。「遣犬上君御田鍬・矢田部造闕名於大唐」、・二十三年。「犬上君御田鍬・矢田部造、至自大唐

ところが、修正漏れが残っていました。「大国」及び「客」のままの部分があります。

(1)修正漏れ、「大国」

推古十六年六月条の国書の盗難に関する群臣、天皇の会話文に修正漏れがあります。

「於是、群臣議之曰『夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉』則坐流刑」

「時天皇勅之曰『妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良』乃赦之不坐也」

この会話文の群臣は「大国之書」と云い、天皇も「大国客」と云っています。 他の文から見ると、ここも「大唐之書」、「大唐客」ですが、修正されずに、「大国」と原文が残っています。

(2)修正漏れ、「客」

「唐客」と修正するところ、「客」のままの箇所があります。推古十六年(六月、八月、九月)の次の部分です。

・「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河直糠手・船史王平、爲掌客。」・「秋八月(略)時、阿倍鳥臣・物部依網連抱二人、爲之導者也。」・「九月辛未朔乙亥、饗客等於難波大郡」

これらの「客」は、他の文では「唐客」ですから、原文が修正されずに残っていることになります。

 推古紀の「遣唐使」は『日本書紀』の編者が「原文」を修正したことによるものでした。
  

まとめ

推古紀の遣唐使は、『日本書紀』の編者が「唐」と修正したことが原因で本来は遣隋使です。推古紀に紀年のずれはありません。安藤哲朗氏が、「『隋書』には『世』の文字がズラズラと出ている」との隋想に触発されて論考となりました。


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                 後漢書の注釈
                  図は『後漢書」の李賢の注釈

はじめに

『後漢書』に「その大倭王は邪馬台国に居る」とあります。この「邪馬台国」には「案ずるに、今の名は邪摩惟の音の訛るなり」と注釈が書かれています。唐の皇太子、李賢による注釈です。この「邪摩惟」の注釈から、『隋書』俀国伝に書かれている「邪靡堆」が、魏の時の都であることがわかります。

1.李賢

李賢(りけん)(生涯655年~684年)は唐の皇太子です。高宗の六男で、母は武則天。儀鳳元年(676年)に学者たちとともに『後漢書』の注釈を完成させます。

初唐の頃には『隋書』(636年成立)、『晋書』(648年の成立)、『北史』(659年成立)、『南史』(683年頃に成立)が完成しています。李賢はこの時代の人です。『後漢書』に注釈したのは唐の676年ですから、李賢は『隋書』、『北史』を読み、『後漢書』に注釈をしたことになります。

2.『後漢書』への注釈

『後漢書』倭伝の冒頭部分に「其大倭王居邪馬台國[案今名邪摩惟音之訛也]。樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。」と書かれています。

李賢は「邪馬台國」に「案ずるに、今の名は邪摩惟の音の訛るなり」と注を入れて、邪摩惟の音が訛って邪馬台と変化したと云っています。しかし、このような変化を、直接記載した史書はありません。「邪摩惟」の字形は「邪靡堆」に酷似していますから、李賢は『隋書』の内容から、この結論に達したと考えられるのです。

3.李賢の考察

李賢の考察の過程は、次のようであったと思われます。

第一に、『隋書』を編纂した魏徴は、隋使の報告から、「魏の時の都は邪靡堆」とあることを知ります。音が同じであることから、邪靡堆を『後漢書』の邪馬台のことと推測しますが、『魏志』には邪馬壹国とあるため、「所謂(いわゆる)」つまり、「世の中でいわれている」の句を挿入して、「『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」の文を作成します。

第二に、李賢は『隋書』に「都於邪靡堆,則『魏志』所謂邪馬台者也」と書かれているので、魏の時の都は邪靡堆であり、『後漢書』の邪馬台のことと理解します。そして、「『魏志』所謂邪馬台者也」から、『魏志』の邪馬壹が、邪馬台へ変化したと知ったのです。

第三に、『隋書』の後に成立した『北史』に「邪靡堆」を「邪摩堆」とあります。李賢は邪靡堆は邪摩堆と理解します。

第四に、李賢は「邪馬壹」の本来の名を推測します。「邪馬」は「邪摩」、「壹」は「一つの事に心をつなぎとめて思う意味」がある「惟(イ)」を当て、「邪馬壹」を「邪摩惟」と考察します。ここから、『後漢書』の「邪馬台」に、「案ずるに、今の名は邪摩惟の音の訛るなり」との注を入れたのです。

以上の李賢の考察は、『隋書』の「邪靡堆」を魏の都と確信したから、可能となったのです。

仮に、李賢が「邪靡堆」を「隋の時の都」と考えていたなら、後漢では「邪馬台」、魏では「邪馬壹」、隋では「邪靡堆」と時代毎に都の名は変遷したと理解し、『後漢書』の邪馬台へ注を入れる根拠が無くなっていました。

あるいは、『三国志』と『後漢書』の比較から「邪馬台国」に注を入れたとすると、「邪馬壹の音が訛る也」となっていたことになります。邪靡堆は魏の都であったのです。
                       
     
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